昭和53年01月16日 朝の御理解


 御理解 第78節
 「神の機感にかのうた氏子が少ない。身代と人間と達者とがそろうて三代続いたら、家柄一筋となって、これが神の機感にかのうたのじゃ。神の機感にかなわぬと身代もあり、力もあるがまめにない。まめで賢うても身代をみたすことがあり。また大切な者が死んで身代を残して子孫をきらしてしまう。神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き、身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることができるぞ。」

 昨日の朝も、やっぱり78節でしたね。昨日は神の機感にかのうたという、神の機感に叶う信心とは、と言った様な事にま焦点をおいて聞いて頂いた。じゃないとたろうたおかげにならないと言うことでしたよね。どんなにたらわなくても、まぁ病気が治ったとか、商売繁盛のおかげを頂いたとか、いうならその都度都度の難儀なら難儀の、その問題をお取次ぎを頂いて、おかげを頂くと言う事はできる。
 けれども神の機感に叶うと言う事ではない。神の機感に叶うた信心とは次にありますようにね、神の機感に叶わぬと身代もあり力もあるがまめにない。まめでかしこうても身代をみたすとことがあり、また大切なものが死んで身代を残して子孫を断ってしまうという様な、いうなら互い違いに信心しておってもですよ、こりゃここは信心のないものという意味じゃないです。もう神の機関に叶たなら氏子と言う事になりますと、なら身代もでけ人間もでけ、健康の上にもおかげを頂いて。
 まぁちょっとしたお手本が、合楽で現しておるおかげが、まぁ言うならばたろうたおかげだという意味の事を聞いて頂いた。だからそのたろうたおかげを頂くために、どうでも神様の機感に叶う氏子、それにはまず自分の欠点を知れとこういうわけです。自分にかけておるものを分かれと。教えによってそれが分からしてもらう。そしてそれが教えによって完璧とはいかんでも、それをカバーして行く事が出来るんだと。天の心を頂いておる人。けれども地の心を頂き現していけない人は、愈々地の心に焦点を置く。
 地の信心は持っておるけれども、天の心が欠けておるという人は、愈々天の信心とはとそこに追及して、天の心を自分の心に頂いていく、そこに天地のいうならば天地が、一つになって喜びあう、いわゆる合楽の世界、それこそ鶴亀が舞い遊ぶようなおかげにもなろうと思う。しかもそれがなそうと思えば子供でもなせる日月の心を、いわゆる実意丁寧神信心。なそうと思えば子供でもなせる。
 そういう信心を身につけていくのですから、信心が有難うなり楽しゅうなり、いやほんとに愉快なと思われるような、いうなら有難い信心生活がでけるようになると。だからそれを目指さなければ、自分に赤がかけておるなら赤を頂く。白がかけておるなら白をいわゆる頂くと言う事にならねければね、言うならば白と赤とがいつもこう離れておりますから、源平合戦の様な事になってくるわけ。これが一つになって、いうならばおかげを頂くときにね、紅白のいうなら鏡餅のようなおかげになる。
 目出度いおかげになって来ると言う事。それをね目指さなくてもほんならおかげを頂いてくるという事実は、沢山のお道の信奉者の一人一人が体験しておる事である。だから「そんな完璧てんなんてんならんでん。」と言う様なこっじゃなくて、その完璧を目指すと言う事なんだ。自分に天の心が欠けておると言うならば、天の心をもう限りなく美しい心。与えて与えてやまない心が天の心だと分かったなら、自分の心の中にあるもう与えるどころか、もうそれこそ我情我欲いっぱいで、美しい心などと言うものは。
 もうそれこそ人んどん見せたら恥ずかしいような心をね、美しい心にそこんところに、んなら本気で磨きをかけていけと。磨きをかける、言うならば手立ては合楽理念をもってすれば、楽しゅう磨いて行く事がでける。辛抱力のないいうなら大地が、それこそ泥のような信心と言うが、それこそ黙って受けて受けて受けぬく心。しかもそれが大地そのものを肥やしていくだけではなくて。上には例えばそこに木が植わっておるとするならば、その木にも、なら栄養を送ってやるような働き。
 自らが黙って治めていくという生き方。こんな素晴らしいこんな有難い事はない。もう言わんで済むと言う位有難い事はない。所が言わなきゃ損する事おもうて言うわけです。そして問題を問題にして行く訳です。もう問題はね大地の信心を目指したら、問題は即刻なくなるです。問題が問題になる信心てんなんてんはもう愈々おかしいです。大地の心をもっての信心、もう本当にあのう問題は即刻なくなるです。そして後に残るものはこういう問題を黙って治められると言う事は有難いと言う事になってくる。
 その有難いと言う心がです、今まで思いもしなかった、いうならば家庭なら家庭の上にでも、言うて聞かせて分からせるというのではなくて、黙って治めると言う事は、神様が働きなさるから、いうならば今まで反対しよった反発しよった、なら嫁ごもついてくるようになりゃ、息子も付いて来る様になると言う様なおかげが、もう向こうにはあるわけ。黙って治めると言う事は素晴らしい。
 と例えばそれを大地の信心と。それをなら日月の心。もう正確無比というかいうならば、心行一本とこう合楽では言われますが、あだや疎かにできない。心に神様を頂いておる限り。こげなことじゃあのその下駄ではあがられん。人がこげんしてあがっとんならば、これをこう揃えずにはおられない。お風呂に入ったら後の人の、気分よう入られるようにと言うてお湯も足しておこう。
 タオルもきちっとかけておこう。石鹸もきちっと水を切って、きちっと整頓しておこう。これは自分のためではない。後から入る人の事のためを思うから、それがでける。それが心行なんです。だからなそうと思えば子供でもなせる事。便所行って汚れとんならばそれを綺麗にしょう。後から入った人が気分がいいだろうそういう思い。そういう心を使う事が、いうならば心行であり、又は日月の心にも通ずる事になるのです。きちっとしたというのは日月の心。
 昨日は富久信会でございました。昨日の朝富久信会の会長からお届けがあっておった。今までは商売人ばっかりの集いですから、儲かったの損したのと言った様な話が多いかったんだけれども、あたしは昨日それもやっぱり商売人ばっかりの集いですから、それこそ今お国を挙げて不景気風がもう吹きまくっとる。だから不景気だから売れない。不景気だから集金がよらない。と言う様な観念を捨ててしまえと私しが。それこそ無常の風ですら、神様は向こうへ追いやって下さる程しじゃないかと。
 もうそれこそ不景気の風ぐらい、金光様の信心しとりゃ不景気はないと。といってまぁ私しが頂いておる体験を、少し聞いて頂いたんですけれどもね。どうもねやはりおかげを頂いてる商売人でも、その根本になるのはどうでも合楽理念だと。そこでそのう合楽理念を根本的にです、分かっておるようで分かってないのですから、一年間あまりであの合楽理念を語るというのを、まぁ合楽理念の講義をね、毎月シリーズ風に説いて欲しいと言う、こういう願いがあったんです。どれは確かにそうだなと。
 何をする百姓させて頂くでも、合楽理念を持ってする外はない。商売させて頂くでも合楽理念をもってする外にない。教会の運営言うならば教会のお取次ぎの働きと言う物も、もう末永先生じゃないけれども、合楽理念を持ってする外になしと言う所まで行かなければ、教会の発展も商売の発展も農作物の、言うなら豊作のおかげも頂けない。もう合楽理念をもってなら家庭生活、大根一本刻まして貰うでもご飯を炊かして頂くでも、合楽理念を基にして言うならば、炊事洗濯万端の上に合楽理念を持ってする所にです。
 そこにきっちとした言うならばおかげの約束があるわけです。それをいうなら日月の心とこういう。なそうと思えば子供でもなせる事だと言うのです。「成せば成る、成さねば成らぬ何事も、成さぬは己が心なりけり」と。もう大変難しい事に取り組む事のように思ったけれどもそうじゃない。成せば成ると言う事は、成そうと思えば子供でも成せる事なんだと。言う事なんだ。下駄箱揃える事がどうしてでけんか。タオルをお風呂入ったらきちっとこう引っ張っておく事がどうしてでけんか。
 しかもそれは自分のためではない。後から使う人が、いうならば気分が良かろうと思うから、そうせにゃおられない。もう一事が万事にそうなん。お客様に接するもお炊事をさせて頂くも、百姓させて頂くもその心掛けをもってする時に、ならつこうた鍬をポーンと投げやる様な事はでけはせんて。それこそおかげで、今日は鍬取りがでけたとそれを磨く。金光様の信心をさせて頂く者の、百姓さんのお家に行ったら、もうそれこそ鍬鎌がぎらぎら光よる。
 と言う様なお百姓にならなければ、本当の金光教の信心を頂いておる百姓とはいえない。と言う様なあのう生き方をです。それで私しは昨日その合楽理念のご本を、「誰かちょっと合楽理念の本を持ってきてくれんね」「だれかここに持たんか」そのう一、二ページをね一年がかりで、ちょっと解明していくわけですから、それで1ページをあけて、前書きから「これまでキリスト教、仏教を初めあらゆる宗教が人間の幸せを求めて、この世に生み出されました。
 だがこれまでこの生き方で行けば、人間が絶対に助かるんだ。幸せになるんだと明確に答えた宗教はありませんでした。もしあったとしてもそれは人間では到底行じ得ない道ですから、行き詰って諦めるか自殺するかしかなかったのですと。合楽理念は生身を持つ人間がその気になれば誰でも、見やすく有難く楽しく行じられる。しかも愉快になれる絶対の助かりの道を説いています」と、例えば言う様な所を読んでもらってね、だからこれから皆さんがあたしの、ならまぁ合楽理念の講義を聴いてくれるならね。
 「ここんところが信じれなきゃ先は語らん」とあたくしがいうた。そりゃちょっと横着いんじゃなかっじゃろか。そりゃ他にも色々宗教がある。もう一番最高のだから最高であるわけを、私しがなら話したんです。この様に普遍性にとんどる宗教。なら釈迦もキリストもここんところは説きえていなかったろうがと。罪とかいうなら原罪とか、因縁とか輪廻とかと言う様な仏教、キリスト教からその持ち出してくる、もうとてもとても生身の人間ででけることではない。
 言わば難しい五戒とか十戒という戒律に縛られて、いや本当の仏教を極めようとするならば、でけないんだというんです人間では。なら金光教の信心はもうそんなこっちゃない。もうその生身をもっておる人間だからこそでけるという教えなんだ。と言う様な所が、もういうならば、金光教の特異性というか独自性と言った様なものを、まぁ聞いてもろうてこれで「成程先生あなたが言いなさるとがほんなっこっ」と、合点しなければ先には進まれんよと言うわけなんです。
 それでそこを昨日は合点してもらうために、そうですね一時間半丁度12時頃まで、お話をさせてもらった。なら合楽とはというその地名ではない。合楽と言う意味合いをまた聞いてもらって、丁度理念とは理性とは合楽理念の母体。ここんところがね「私しの上に起きてくる様々な問題を一切合切、黙って受けていくその事を修行としよう。いわば成り行きを尊び、成り行きを大切にする事。」そういう、言うならば生き方が合楽理念の母体になるんだと言うのです。
 そこから生み出されて来る訳なんです。喜びの種が蒔かれるから、喜びの芽がでて花が咲いて、実が実ると言う事なんです。しかもあたしがあんなら、神様から示されたそして私しがそれを実行して、体験の上にこのおかげを見てくださいと言いながら、聞いてもらう絶対の道だと言うてあたし皆さんに。そういう説き方をした宗教がほかにあるかと。ほんなっこそうですね。といわにゃあとは先の方あたしが語らん。という風に一言一言確かめ確かめ参りました。
 そこでなら昨日に続いてから、この68節を思うのにです。神のおかげを知らぬから、互い違いになってくるんだと。なら神の大恩を知れば無事達者で、皆が願ってやまないところの子孫も続き、身代もでけ一年勝り、代勝りのおかげが受けられるというおかげに成って来る訳。そこでなら神の大恩をしらなければならない。神のおかげを知らなければならない。どういう手立てをもってすれば神の恩、大恩が頭で分かるのじゃない。心から喜びが湧いて来る様な心の状態で、神様の大恩を分かる。
 神の大恩をキャッチする事がでける。そこから言うならば実感を持った、言うならば有難いというものが生まれて来る時にです、神のおかげを知らんから互い違いになるのですから、神のおかげを知るからいうなら、スムーズに足ろうたおかげに成って来ると言う事が分かるでしょうが。教祖様はうまい事言うちょんなるなぁと。じゃないです。これはもう本当なんです。教祖のみ教えには嘘はないです。それをね私し共はどうでも実証していかなければならないです。
 神の大恩が段々分かってくる。言うならば甘木の初代なんかは、その神の大恩を誰よりも分かられた方だと、あたしは思うです。天地の大恩をこれほど分かった方は、今までかってなかったじゃなかろうと思うくらいです。だから一切のものに御の字をつけられた。御物。御物をお粗末にはしちゃいかんぞと。風呂を沸かすのに「今日先生もう、金で買うたもんじゃなくて、庭の塵葉や枯れ枝やらで沸かしましたから。」と「そんなら沸かし過ぎてよかか」というちゃった。(笑う)
 「お風呂が沸かし過ぎてよいかっち。その木の葉一枚枯れ枝一本が、なら神様のものじゃなかの」っちいうておこられたという、まぁ話がありますほどにです。神の大恩が分かれば分かるほど、そうしなければおられない。一滴の水でも一粒のお米でも、同時にどう言う事柄であっても、自分の上に起きてくるその事柄を、御の字をつけて御事柄ともまた、頂かなければおられないという説き方が合楽なんです。どんなに神様を大事に尊ぶというても、神様の御働きそのものをね、粗末にしてはならない。
 どんなに小さい事でもお粗末にしない。そういう頂き方がでけるために、心行が必要になってくる。表行から生まれてくるおかげは、もうそれこそ夏の日の、それこそ夕立雲のようなものだと。いかにもモリモリ。入道雲がでけとるけれども、あっという間に消えるようなもんだと。もうこういう一番つまらんし、又ね金光教の信心しよって表行をするならね、もう何何宗も何何教も同じ事になるて。金光教は表行より心行せよと仰るのじゃもの。だから表行もしたっちゃよかろう。
 心行もしたっちゃよかろうと言った様な、あたし共も考え方しとった時代がありましたけれども、こりゃ頂き方違いであったと思うんです。仏教より金光教をせよといわれたらどげんなるですか。なら仏教もして金光教もするっちいうちゃいかんでしょうもん。仏教より金光教をせよと言われたら、その仏教をパッと切り捨てなければいかんでしょうもん。金光様のご信心でもそうです。今までの行き方はもうちっと古なった。いわゆる全教一新していかなきゃならない。
 そんなら今までの過去の信心というものは、それは親が教えておろうが、師匠が教えておろうがです、より本当な事になったら、それを切り替えていかなければ、次の新しい物は生まれない。私は今日神様に、色々とお願いさせてもらいよったら、その髪を伸ばしてね、それがもう妙なこげな髪型があるじゃろかっち、もうこげんおかしい事はなかっちいうごたる、髪を結うとる婦人を頂いたんです。
 もうそりゃ妙な髪じゃん。髪ながかばってんどっかこの辺にカチューシャんごたるとば入れとるかと思うと、どうか日本髪のごともあるちゅうごたるふうでですね、そしてあたしがそればお願いさせてもらいよったら、こん付け根んところば、じっとこう自分で握ってね。そのうなんか鋭利な刃物で、プツッと断髪したところを頂いたです。過去の信心もね、全部丸坊主なってしまえと言う事じゃないです。
 金光教という信心は髪と言う事は、神様の神でありね、信心の芯と言う事にもなる訳ですが。だから今までね惟でおかげの受けられん受けられたにしても、もっと素晴らしい受ける生き方というものがここにあるとするならば、これを切って捨てなければでめですよ。所謂断髪するのです。そこに所謂電髪ですね。パーマネントの事を電髪というです。いうならば神様のね、いうならば電流をというかもう直接ね。
 言うならパーマならパーマをすると頭もかるなるし、見掛もよかでしょうが。合楽の場合はそういう断髪をしていうならば、今の流行のパーマをしとるようなもんじゃないでしょうか。なんかしだごだしたものに、こうそれこそ道とかこの、金光教で言う道と言うのが大体間違いです。親の事を忘れる子供はおりゃしません。また親も子の事を思わんおやもありますまい。師匠の関係。弟子との師匠と弟子との関係。これを暴虐するような、例えば信心は金光教にはありません。
 もう金光教の信心、いや合楽理念の根本は親孝行と言われておるですから。けれどもその例えその素晴らしい師匠であろうが、親であろうが教えておった事よりか、もっと素晴らしい事があるならば、それを私しは断髪して、次の本当の信心になって行く事を、親も喜び、師匠も喜ぶというような、言うならばそういう金光教になっていかなければダメなんです。これから「お前は道を間違えとりゃせんか。」道と言う物はそんないくつもあるもんじゃないです。
 「道と言う言葉に迷う事なかれ。道は教えを踏むほかにないのです。」それを道とか何とかと言った様な事で、がんじがらめにして動きも取れないような、信心になってしもうて、金光教がいよいよ萎縮をして、一途を辿るより仕方のない状態が、今の金光教。今日は昨日に引き続いて、神の、まず機関に叶うあたくしになろうと発心しなければなりません。今すぐ出来る筈はありません。何十年かついてきた、言うならば癖とか習慣とか、一つの個性なんですから
 。けれども金光様のご信心をするならば、それではいけないぞと。欠けておる所はここにあるぞ。それ欠けておる所を自分の物にするためには、こういう生き方があるんだぞとまぁここでは説くわけです。しかも絶対の道だよ間違いがないよ。これで行けば御徳もうけられる。おかげもいただけれる道なんだという風に教え示す。ここでは一番皆さんにどうでもと言っておるのは、天地日月の心になること肝要だと言う事なんです。肝要なんです。天地日月の心になること。
 そんなら天地の心とは日月の心とはという、もうそれこそ心憎いまでに合楽では、何十年間説いて来ておるんです。だからその心をなら自分の心にすると言う事が、どう言う事になるかというと、とりもなおさず神の心を心とすると言う事に、なるのじゃないでしょうか。そりゃ神様の心を自分の心に持ってくるてんなんてん、そげなこたでけんっちいうこたなかて。神の心を心としてと言う事がです。
 いうなら天地日月の心という、いうなら天地の心、日月の心を解明して、それに手掛りを頂いて行くと、「はぁこれが天の心であろうか。地の心であろうか。」ということになってくるのだ。その天の心地の心と言う、その例えば心を愈々限りなく美しいものにさして頂こう。愈々黙って黙って受けて受けて受け抜かせて頂こうと。と言う様な決心が付く所から、神様の喜びがこちらに帰ってくる。神様のお喜びになる。と思う様な事をふっと心に思いよくと、パチッーとおいさみがあるでしょうが。
 皆さん「はぁたったこんくらいの事を神様がこんなに喜んで下さる。たったこの位な事を」ね。感動が起こると言うが、あれは神様が感動しござると。もう既に神様との言うならば交流が始まる。そこからです分かるなと言うても、神様のおかげが分かりようになり、神の大恩が分かるようになるから、そのお心に応えまつる所の、信心生活も又でけてくると言う事になるのです。
 だから愈々子孫繁盛家繁盛の道がそっから開くてくるです。合楽理念とはそういう、いうならばおかげが分かり髪の大恩が分かることを、いうならば解き明かしてあります。これから一年掛りで、その事をもっともっと、なら詳しゅうこの15日だけは説く事になります。だから商売人だけと言う事はない。本当に合楽理念をもっともっと深く広く頂きたいと言う人達は出て来て下さると、たった2ページでも「1時間半かかったですよ。お話が昨日。それだけ深いものにしていけれる。
 最後に頂いた事はね、例えば昨日私しが、ここ1ページ2ページを読んで、これをあなた方がそれは金光教より仏教の方がよかろうと。りゃぁ金光教よりかリスト教の方が世界的にいうならその、三大宗教と言われる様な宗教やけん、それには金光教はかなうめち。金光教信心しとって、そげな事知らんもんだから、思うとる人が沢山あるです。そりゃぁ仏教やら、あのうなんや叶わんっち。いやもう天理教にでさえ叶わんっち言う人があるくらいです。金光教信心いただいとってから。
 とてもとても他の宗教宗派がね、束でかかって来たっちゃ金光教には勝たんです。だからそのあたしの大きい事と思わずに、それが本当だと確信しなければ、合楽理念の土台と言う物がそこになからなければ、身に本気でつけようと言う気も起こってこないです。まぁそういう素晴らしい、あのう御道の信心、金光教の信心に縁を頂いておっただろうかと改めていうならば、有難いと思わしていただけれる所から、始められなければならない。一番最後に私しが頂いた事はね。
 皆んなが難儀とこういろんな問題を難儀とこう言っておる。難儀ではないそれはおかげだと言う事をね。根本の所に分かって合楽通いをする。北風は痛い痛いけれども、その事によって、北風で強うなれと神様がいうてござる。恥かしゅう人から笑われる。その笑われて愈々かしこうなれと、神様が仰るとだからおかげですね。一切が所謂おかげと根底にあってね、それを生身をもっとる私しですから、それをほんとにおかげと頂ききらん所に、今後の信心の修行があるけれどもです。
 なら今日皆さんに聞いて頂いた様な所を、皆さんが本気で行じなさるならばです、成程親先生が言う様に、もうソツなものはひとっつもない。無駄な事は一つもない。氏子がにくいからと言った様な神様の働きはひとっつもない。あたしは昨日の関東地方の大震災の、ことが新聞で報道してあったのを見せて頂いて、もう本当に心からあたしお礼を申し上げたです。おかげですですから一切の事を、例えば天地の間に起きてくる事の全て。しかもあたしに向けられるところの、起きてくる全てのことは。
 あたしに求めたまう神様の修行だと、それを確信してそして合楽理念の勉強を、しなければならない。きょう78節のね、神のおかげを知らぬからとか、神のおかげを知れば、無事達者で子孫も続きと言った所をです、そこんところに今日は焦点を置いて、きょう聞いて頂いたわけ。その前提としてまずなら神の機関に叶う。昨日の御理解の所を一つ本気で身に付け様というね、はぁ金光様の信心すりゃ大事、もう毎日(笑い)行じなんことばこげん頂くなら。それが大事じゃないです。もう楽しいです。
 今日はどげな御理解をいただくじゃろうか。今日はなにどれに取り組むじゃろうかと、一辺取り組んでみてご覧て。もう行じる事の楽しみがおかげになって、ちゃぁんとあらわれてくるけん、こげな嬉しい有難い事はないて。朝参りせにゃおられんて。あさの御理解を頂かにゃ、ほんと今日のご理解はどげんじゃったのっちいうて、帰ってうちで話したら、うちのもんも喜ぶぐらいな、あたしゃあのう信心と言うものを楽しいものにしていかなければね、いけないという。
 78節はそういう大変なことが色々説いてあります。まぁ昨日今日のわたって、そこんところを聞いて頂いた。まぁだこんなこっちゃないけどね。うんどうぞこの1ページもう一辺皆さんが見て見て下さい。「合楽理念を語る」と言う。そして1ページをサーと読んどったが、ほんと親先生がここに書いちゃる通りに、こうしんじなければ次のいうならば、講義は受けられん。先には進まれんと言うくらいに、もしお互いがくるなら、もういっぺん聞きなおして、こういうわけだから名教だよ。こういうわけだからなに、どこの宗教、宗派よりも優れておるよと言う事を分からせて頂いたら良いですね。
   どうぞ。